「ふしぎばなしの夕べ」後半 p.2


【 避難所での再会 】
臼澤▼ 中央公民館は、以前から家族たちに「地震があったらここへ避難」ということにしていたので、ここにいれば会えるはずです。それで家族たちを探しました。
千人くらいの人でごった返していましたが、その人たちに「こういう人を見なかったか」と聞いて回りました。しかし誰もが「知らない、見ていない」というのです。でも家族は必ずここに来るはずです。
それで私は、玄関のところで待つことにしました。すると、30分後くらいでしょうか、「おとうさん! タロー!」という声が聞こえます。妻が走ってきたのです。彼女は私のところまで来ると、喜びのあまり私を抱きしめてくれました。
妻は、私が流されていくとき、ここの歩道橋のトップのところにいて、それでも水が胸のあたりまで来ていて、当時1歳の孫を抱きかかえていたそうです。その歩道橋もグラグラして、自分の命も危ないというとき、妻は私が流されていくのを見たというんです。「うちのおとうさんもタローも、もういない」という絶望の中、たまたま歩道橋の上から、私とタローの姿が見えた。それですごくびっくりしたそうです。
その歩道橋もやがて倒壊するのですが、住宅側に倒れたため、なんとか家々の二階を渡り歩き、水流に呑まれずにここまで来ることが出来た。そういうんですね。
それで「お互いよく助かったなあ、神仏に助けられたなあ」と言いました。
ちなみに後年、津波の話をする機会があって、「再会した妻が抱きしめてくれた」と私が話していたら、妻がこう言うんですよ。
「違う、おとうさんじゃない、タローを抱きしめたんだ!」
・・・もうガッカリですよね(笑)
一同◆ (笑)
臼澤▼ 妻は、流されていく大勢のなかから私の姿が見えたわけで、これも不思議な話です。
もう大槌町だけでも、すでに800人以上が亡くなっている中で助かった。
これは2011年5月の写真なんですけれども、(以降、映写写真を指し示しながら、避難したルートを解説)
第一波がこのへん、第二波がこのへんまで来ました。よくぞ助かったと思います。ここは火事で、ここも火事になったんで、火の粉を被り、ここに逃げたんです。
これは2週間後にTさんが撮った写真です。これがコンビニ、私が逃げたところです。ここが火事になったので、ここに逃げました。もしここにずっといたら、すでに私とタローは命がなかった。
これが避難所です。鹿子踊伝承館になっています。
亀田● これは臼澤にある伝承館ですか?
臼澤▼ はい、そうです。
ここのブルーシートのところのデスクで、私は毎日避難者から要望を聞き、役所に伝えたのですが、「あとで、あとで、あとで」と言われるばかりでした。
本当に助けてくれたのは遠野まごころネットの人たちでした。
たとえば役所に「布団が欲しい」というと「何枚欲しいんですか」とくる。
「170人分」と言うと「そんなに急には用立てられない」という反応です。
ところが、遠野まごころネットに言うと、「よし、わかった」と言ってくれて、翌日何十人分、翌々日にも何人分と、どんどん届けられました。
高齢者の方のサポートもしてくださいました。それがまごころネットの、いや、遠野市の支援の活動でした。
これは「雨ニモ負ケズ」の詩です。
皆さんも小学校から大学、社会人に至るまで、何度も目にされたと思います。私も震災前に何度も読みました。
しかし、この詩の行間にある深い意味は、震災のとき・・・避難して苦しんでいる人々と肩を寄せ合いながら過ごすうちに、ようやく理解できた気がします。
たとえ誰かに「お前はなんでそんなことをするんだ、お前はばかだ、でくのぼうだ」と罵られても、苦しんでいる人がいたら一緒に涙を流そう、今はそういう気分です。
そしてこの写真は、忘れもしません、2013年10月ころ、お祭りが過ぎた10月頃です。いまここは大槌町の野球場になっています。
ここを黒い服を着た女性たちがずーっと・・・。
ここには流された人たちの骨が埋まっているかもしれないんです、そこをずーっとさまよっている。これを見た時は目が釘付けになりました。
【人のえにしと生命】
臼澤▼ 私は震災当時62歳でした。62年間、培ってきたものが一瞬でなくなる。ストンと立場が変わったんです。こんなに楽なことはないと。価値観が変わりました。
モノよりも、人の心のありがたさ、それが自分にとっては一番大事だと。それで、避難所でみんなと肩を寄せ合いながら「一人では生きていけない、ともに生きるんだ」と、これが骨身にしみました。
生かされたことで何が出来るかということですけれども、自分に言い聞かせつつ生きております。
これで終わらせていただきます。ありがとうございました。
亀田● ありがとうございました!
人間って、とかくモノ、物欲に支配されがちで、かく言う私もそうなんで、それがスッとなくなった状態というのは、私にはまだ分からない領域です。
そこまで達観されたということ自体は、ある意味うらやましいのですが、しかし、そこに至るまではつらいこと、苦しいことは当然多かったでしょう。築いてきたものを失う、お家や、思い出のある品々を失うというのは・・・。
臼澤▼ いや亀田さん、それが、無くなった瞬間にストーンと、肩の力が抜けるんです。
亀田● ある種の達観、悟りですね。
臼澤▼ これは、私だけでなく、ほかの被災者の方もおっしゃっていました。
亀田● 助かった瞬間のことを仏教者の方に言ったら、異口同音に、真言宗でしたっけ、おっしゃっていたと、前にお話ししてましたよね。
臼澤▼ はい、南無大師遍照金剛、これは真言宗の方は唱えるんですね。南無阿弥陀仏と同じです。それを唱えながら伝承館で活動していたとき、高野山の方々がクルマで支援物資を持ってきてくださったんです。
亀田● おーっ、遠路はるばる!
臼澤▼ はい、それでそのとき、私は南無大師遍照金剛と唱えていたとお話ししたんです。そしたらお坊さんたちが私を取り囲んで手を合わせて・・・。なんでこんな私なんかに手を合わせてくれるんだと。私は仏じゃないし、おかしいでしょう。
そしたら、「二河白道」(にがびゃくどう)ということを教わったんです。
これは仏教の言葉で、右から大水、左から大火事が迫って逃げ場がなくても、白い道が現れて助かるというんです。
それで私も、「津波と火災から逃げているとき、すーっと白い道が見えました」と言うと、ああそれはまさに白道ですと。さっきのこれを・・・
亀田● はい、ワイヤーを掴んで・・・
臼澤▼ はい、あのとき、まさに白い道がスーッと見えたんです。それで、その話をしたら「それは白道です」と言われて、20人くらいのお坊さんたちが私に手を合わせてくれて・・・。
亀田● 命が助かるというのは、そういうことなんでしょうね。
臼澤▼ 命が助かる、何かにすがっていく、それが伝わって、心が、言葉が通じ合っていく、そういうことを今感じています。
亀田● 感じていますか。「えにし」というのはありますし、また二河白道のようなこともあるんですよね。
臼澤▼ 絶対に、これは目には見えないですが、実在します。
亀田● 実感として、あるということですよね。
臼澤▼ はい。
亀田● ありがとうございました。良い話を聞かせていただきました。
それから、これは余談なんですけれども、さきほど出てきた「鹿子踊伝承館」、みなさん臼澤みさきちゃんはご存知ですよね、あそこに、民謡の練習に来ていたんですよ。
その民謡の会の中心人物があの方、Tさんですよね。
みさきちゃんは、Tさんに「アニメソングやってるから遊びに来ない?」とだまされて行って、それがきっかけになって民謡をはじめたと(笑)。
臼澤▼ 臼澤みさきちゃんとは、避難所でいっしょに飯を食いましたよ。
亀田● みさきちゃんが被災したのはまだ子供の頃、少学6年生のときでしたね。
臼澤▼ ええ。あのとき加藤登紀子さんが避難所に来ていて、みさきちゃんは頭を撫でてもらったそうです。
亀田● へえー、そんなことが・・・。そのあとテレビに映ったのがきっかけで、ポンポンとデビューしていくんですよね。なにかこう、ひとつの運命のように感じますね。
臼澤▼ 必ず何かとつながっています。
亀田● つながっていますよね。みさきちゃん自身もそれを感じてたみたいなんです。
彼女もお友達をたくさん亡くしていただろうし、つながっているという何かを感じて、いちばん最初のコンサートのタイトルが「 繋 – tsunagu 」だったんですよね。
臼澤▼ やはり人は一人では生きていけない。震災で実感しました。
亀田● ミラクルはあるということと、人は繋がれる、信じられるということを、私はきょう実感したのですけど、こうして皆さんが集まってくださったのも、何かのつながり、「えにし」だろうと思いますので、今後もこういった催し、ちょこちょこやっていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。
時間がもう少しありますので、このあとはざっくばらんな質疑応答みたいなことにしましょうか。こんな不思議なことがあった、遠野でこんな出会いがあった、そんなお話、ありませんか。
【 震災 1週間前の予兆 】
臼澤▼ 不思議なことといえば、避難所でお会いした方のなかに、震災のちょうど1週間前、釜石の山で釣りをした方がいました。その人は前から何度もそこで釣りをしてる人なんですが、そのときだけは、こんなに大きいコイがいっぱい釣れたそうです。
亀田● いっぱい釣れたと!
臼澤▼ ええ。それで、それが不思議でしょうがないと。もしかするとそのコイたちは、1週間後に津波で流されることが分かっていて、「自分たちをどこかに移してくれ」という意志で釣れたのかもしれない・・・と言っていたんです。それで、まさにこれは遠野物語だなあと。
亀田● 柳田國男が遠野物語を顕した明治43年に、今昔物語を引き合いに出して、
「遠野の話は昔のことではないんだ、今昔物語は昔の本で、しかもそれに『今は昔』と書いてるんだから大変な昔だ、けれどもこの遠野の話は現在の出来事なんだ」
と主張していますね。
これは私もそう思います。遠野物語は現在も連綿と続いています。
遠野物語には、「明治三陸津波」で山田町の人がさらわれた話もあるんですけれども、先の震災でもその山田町は、やはり津波の被害にあっているんですよね。
それで、山田で被災した人の子孫の方がテレビに出て、「私はこれを語っていかなければならない」とおっしゃっていました。
遠野物語は今もこうして生きているのです。皆さんも、人のえにしや、いろんな出来事、不思議な話などをぜひ語り継いでください。
W◆ Wといいます。盛岡から来ました。えにしということをお話ししたいと思います。
私は平成10年に縁あって転勤してまいりまして、その年の一日市南部ばやしで亀田さんとDさんに出会い、それ以来の付き合いですからもう30年になります。
お二方に私が認めていただいたのは、ある出来事がございまして、私も官舎がが東舘にあるので、東舘の南部ばやしに毎年来ております。
今年は雨で、21日は東舘は出ないということで、次の日は亀田さんの紹介でやぶさめに参加するはずだったんですが、これも雨で流れまして、それで本殿でお参りしました。
それで夜更けまで、一日市南部ばやしの事務所で亀田さんとDさんと騒いで、大盤振る舞いをして、騒ぎすぎまして、大打撃を受けてしまいました。これ、私にとっての遠野物語です(笑)。
亀田● ぼくはWさんって、毎年参加していたイメージがあって、それが印象深いんだけど、出たのは一回だけ? 東舘のほうに・・・。それしか会ってないのに、こんなに印象を残す男というのも珍しくて、ほんとにこれは遠野物語的だなと思っちゃいます。
W◆ ありがとうございます。遠野に名を残せるように、今後も頑張ろうと思います。
亀田● 盛岡から来てくださったWさんでした。
一同◆ 拍手
亀田● ほかにも何かありますか。不思議な話、面白い話とか・・・。
S◆ はい、私は幽霊の話、けっこう引き出しを持っていまして、その中から自宅に出た幽霊の話をしたいと思います。
まあ幽霊というか、うちのお爺さんなんですけれど、ちょうどお爺さんが亡くなり、出棺で、みんなが火葬場に向かっていたとき、昔で言う「隣組」の人が家に残って番をしていたんです。
そしたら、祭壇のある部屋からものすごい大きい音がしたと。それで、「どんな音だったの?」と聞いたら、「しこを踏むような音だった」というんです。
うちのお爺さんは生前、足腰が弱らないようにと、いつもしこを踏んでいたんですよ。それでこれは、「ここにいたんだよ」ということでドスンドスンとやっていたのかなあ、と・・・。
それから、うちの母もけっこう見る人なんです。それでなぜか、人が亡くなる瞬間が分かると。親族だけなんですけど、「あの人はいま亡くなるから、今から行っても間に合わない」などと言います。そこらへん、第六感といいますか、そういうのがあるんだなと思いました。
亀田● ありがとうございます。
臼澤▼ 私、死にそうになったことが二度ほどありまして、一度目は中学3年のときです。
石油ストーブをつけて受験勉強をしていたのですが、そのストーブが途中から不完全燃焼して、一酸化炭素が出てきちゃった。
でも机で勉強していて、それが分からないんです。ところがそのうち、腹が痛くなってきて、「これはもしかすると明日学校を休まなきゃいけないのでは」と思うほど痛くなりました。
そのうち視界が真っ白になりました。白い世界の中に、蓮の花が見えます。これも真っ白です。すべてが真っ白な世界。
それで「こんな世界があるのか!」と思っていたら、いきなり廊下に引っ張り出されたんです。その後看護師さんに点滴を打たれ、「死ぬ寸前だったんだよ」と教えられました。
亀田● 臨死体験ですね! 部屋から引っ張り出してくれたのはどなたですか?
臼澤▼ 家の人です。その後近くのお医者さんに電話して、点滴してもらって、検査してもらいました。
まさに臨死体験だったのですが、まさかあんな、真っ白で穏やかな世界を見るとは思いませんでした。これは、体験した者でないと分からないと思うんですけれど・・・。
でもやはり、隣で見ている死というのは恐ろしい。怖いですよ。
津波で避難所に行って、寒くて震えていたのですが、それで看護師さん、役場の方に「寒くてしょうがない」と言ったら新聞紙をくれて「体に巻いてください」と言われました。
そして新聞紙を巻いた時の体の暖かさ、一枚巻いただけであんなに暖かくなるとは思いませんでした。
でもそんな中、高齢の方が2人、3人と、ついたての向こうに連れて行かれるんです。「どうしたのですか」と尋ねたら「亡くなられました」と。それで、「なぜ隣で寝ていた人が亡くなるのか。自分は新聞紙を巻いて助かったのに・・・。もう生きていることが申し訳ない」と思ってしまいました。
亀田● お話を伺うと、一酸化炭素中毒のときもそうですし、震災のときもそうですが、やはり「生かされている」という感じがしますね。
臼澤▼ 震災の後、ボランティア活動しているとき、何人かの方に「どうだった?」と聞かれたのですが、「神仏に生かされた」と答えていました。
すると「臼澤さん、あなたはそうおっしゃるけど、うちの息子や祖父母は亡くなったんだよ、これは神仏に見放されたということですか」という方がいらっしゃいました。
これは苦しいです。本当に苦しい。
ですから、そういう方々のためにも、これから頑張って生きなきゃならない。
亀田● そうですね。
臼澤▼ これから私、長いことはないですけれども、生きている間は遠野物語に匹敵するような物語を作っていこうと思います。
亀田● ぜひ想いを語って、紡いでいって頂きたいと思います。臼澤さんはまごころネットで活躍されて、大槌町の町会議員もされています。
もう一度拍手をお願いします。
一同◆(拍手)
亀田● では、宴たけなわではありますが、本日はこれで終了したいと思います。きょうは遠野市内のみならず、盛岡、仙台、東京、そして関西からもお越しいただき、ありがとうございました!
そして、旧友の方にもお越しいただきました。
Mくん、遠くからありがとう。彼は「コミケットトレイン」という列車イベントをしていたんです。大阪からコミケに行く人のために。
ユーロライナーを借り切ったときもあったよね。もうコミトレやるのにクルマ3台分くらい費やしてるよね(笑)。
それだけかけても、どんなに大変でも、あのころはみんな、自分の活動にかける使命感みたいなものがあって・・・。
私はコミトレの車内で遠森くんと音楽をやったんです。それが私のバンド活動の始まりになりました。そういう、さまざまな縁で人はつながっているのですよね。
ほんとにきょうは、多くの人に来ていただいて、大変感謝しています。
【 遠野物語は終わらない 】
遠森■ 最後にひとつ、私なりの遠野物語の解釈なんですが、亀田くんは「遠野物語は文学だ」と盛んに言ってまして、でも私は「怪異を記録したものだろう」と思っていたのですが、さいきんこれは文学なのかもしれないと思い始めました。
それは、遠野物語の「拾遺」のほうに「飛行機」という話があるんです。
これは飛行機が遠野上空を飛んだという話です。
それで、佐々木喜善さんは飛行機を知っていたんだけれども、村の人たちは知らなかった。
で、佐々木さんが「飛行機だ、飛行機だ」と言いながら村の道を走ったら、人々が家から出てきて「どこだどこだ」と言って探した。
それだけの話なんですけれども、遠野物語って、不思議なこと、日常の「あれっ」と思うようなこと、お化けや妖怪だけではなく、日常の中で「あれっ、これ面白いな」というようなことを記録した「文学」なんだなと思えました。
それで、これは京極夏彦さんもおっしゃっているのですが、「遠野物語は終わらない、今、この今も遠野物語の中にあるのだ」ということを、私たちはあれを読んでいるうちに認識していくんですね。
亀田● ああ、それは私もそう信じています。
遠森■ ですので、今こうしてここに皆さんがお集まりくださり、セッションが出来たということも遠野物語なんだと思います。
遠野はコンパクトな街で、いわれのあるものがたくさん、そこここにありますので、そこで不思議な思いをしたら、それもまた遠野物語になっていきます。そういうことを未来につないで、渡していくことが大切なんだと思います。
亀田● そうですね。そういう日常のふとしたことを紡いでいくことが、私たちの遠野物語なんだと思いますね。
遠森■ そういうことの積み重ねが「まちづくり」なんです。遠野を応援しています。ありがとうございました。
亀田● 皆さん本日はありがとうございました! 亀田歩でした。そして・・・
遠森■ え? あ! あのう、遠森慶という変なおじさんでございました。
一同◆(笑、拍手)
・・・以上で終了です。
読んでいただきありがとうございました。
当記事で使用した画像は、当セッションのポスター及び山神ハラボジのイラストがオリジナルです。
そのほかはwix-siteの素材写真を、場面ごとのイメージに合わせて挿入いたしました。

