「ふしぎばなしの夕べ」後半 p.1
《 注意 東日本大震災の詳細描写があります 》
「遠野まごころネット」で活躍しておられる大槌町会議員・臼澤良一さんに、震災当時の体験を語っていただきました。
生死を分けた貴重な体験談ですが、それゆえ非常に生々しい表現があります。当時のことがPTSDになっている方は、この先の閲覧をお控えください。
亀田● それでは第二部に入ります。きょうはゲストとして、大槌町から臼澤良一さんに来ていただいております。
臼澤さんは、「遠野まごころネット」で活躍されていたときからの知り合いで、一度遠野で飲んだとき、貴重なお話を聞かせていただきました。東日本大震災の体験談でしたが、うかがううちに私は「ふしぎばなし」的な要素も感じました。
そんなわけで、このセッションでも語っていただきたいと思い、お招きした次第です。それでは臼澤良一さん、ステージにお願いいたします。
臼澤▼ 臼澤です、よろしくお願いいたします。
一同◆ (拍手)
臼澤▼ やはり大勢の方々の前でお話しするのは緊張しますね。うまく話せるかどうか分かりませんがご容赦ください。
遠野市の皆様には、大震災のときも大槌町を支援していただき、ありがとうございました。さきほど亀田さんからご紹介にあずかりましたけれども、「遠野まごころネット」で務めさせていただきました。皆さんのお陰で、いま大槌町で生活しています。
きょうは不思議な話ということですけれども、震災から13年8ヶ月目になります。2011年の3月に体験したことを、お話しさせていただく場を提供いただき感謝いたします。
さきほどお二方のお話を聞かせていただき、感動してしまって、何をお話しすればいいかと今思ってるんですが、震災当時のことを、皆さんにも今一度振り返っていただき、しばらくの間お付き合いいただけたら幸いでございます。
それでは、スライドに基づいて進めさせていただきます。
あれから13年8ヶ月。この写真は、2011年3月、津波があって、一週間くらいしてからの写真です。城山公園のところです。まだ向こうの山には雪が残っています。
これは4月1日の中日新聞・毎日新聞に掲載された写真です。これは2010年3月、津波の一年前の写真です。それがなんと、翌年の3月18日、こうなりました。これがJR山田線、大槌駅で、私の家がここにあります。それが津波でこのようになってしまったわけです。このとき私が体験したことをお話しいたします。
これはGoogleの地図です。震災の後の地図ですね。
2011年3月11日、14時46分、大変な地震がありました。そのとき私は自宅の二階で、岩手県から依頼されたレポートを書いていました。レボートの清書をしていたのです。
そのとき警報のアラームが鳴って、「あっ、地震が来るのかな」と思いました。
そして揺れが始まりました。これが大変な規模でした。震度7というのはとんでもない規模です。その揺れで二階の部屋は、パソコンや本が崩れてグチャグチャになりました。
逃げる場所がないし、立っていることも出来ない。「このまま家が潰れて、自分は死んでしまうのではないか」というほどの恐ろしいものでした。
でもやがて揺れが収まりましたので、うちのかあちゃんに「逃げよう」と言ったのです。津波警報があり、電気も全部切れましたので、「ラジオつけて」といって、かあちゃんにラジオをつけてもらいました。そしたら津波の第一報は3メートルだと報じられていました。
私はそれを聞いて安心したのです。私が小学生の時にも津波があって、駅までは水が来たのですが、この家までは来なかった。しかも当時と比べたら、今の防潮堤は8~10メートルになっている。だから3メートルの津波ならカバーできるのでは? と安心しました。
それで、モノが散らかった部屋、倒れた仏壇などを、かあちゃんと二人で片付けていました。
そしたら長男が駆けつけてきて「津波だから逃げろ!」と言うのです。でもここまで来るはずがない。なので「落ち着いて、落ち着いて」と言って、なんとかセーブしていました。
その後、次男の嫁さんと孫が来て、クルマをここの駐車場に止めました。そしたらうちのかあちゃんが「うちのおとうさん連れて逃げて!」と言ってるんです。なぜ逃げる必要があるのかと、私は思いました。
【 街全体が洗濯機のように回る 】
臼澤▼ それで、窓の外を見たら、この山田線のほうまで、家々がガラガラと流されてきている。水の下の方が見えないので、一瞬「火事かな」と思いました。
14時26分には自分の家は倒れていなかったけれど、もう30分も経ったら倒れて、流されてしまうのかな、と思いました。
そして1メートルくらいのところを見たら、真っ黒なんです。水が真っ黒。それでこれは津波だと分かり、逃げる決心をしました。うちのかあちゃんに「地震があったらタローを頼む」とよく言われていたので、2階に上がりました。
タローというのは飼い犬で、その時は2階のクローゼットにいました。
それで、タローを抱えて階段で降りようとしたら、とんでもない、真っ黒な泥水が2階まで上がって来ていて、ああこれはダメだと思いました。もう階段では逃げられないので、屋根に出ました。すると、ものすごい光景が広がっていました。
大槌町全体が巨大な洗濯機のように、グルグル回っているのです。
とんでもないですよね。それで家々も流されているし、クルマも人も流されていて「助けてくれー!」という声がいっぱい。「助けてくれー、助けてくれー」とあちこちから聞こえます。
流されている家と家の間で人が叫んでいる。でも次第にその声は聞こえなくなるんです。もしかしたら家に挟まれて亡くなったのかもしれません。
クルマも、電気回路が水でショートして、クラクションが「ビーーー!」と鳴りっぱなしになるのですが、それすら完全に水没してしまうと聞こえなくなる。
また、大槌町の燃料はプロパンガスなんですが、それがあちこちで漏れて、この街全体がガスの匂いで充満しました。これで火花が出たら街全体が爆発してしまうのか! というくらいの匂いでした。
そうしているうち、ついに我が家もゴトッゴトッという音とともに、少しずつ動き始めたのです。
足元に鈍い音が伝わってきます。どうやら床下の基礎部分がはずれて、家全体が浮いてしまったようでした。そしてゆっくり、ボートが動くようなゴトッ、ゴトッという音・・・。
私はテレビのワイヤーを掴み、タローを抱えて逃げました。
そのとき、私と同じくらいの、屋根に上っている方がいました。私は水が渦を巻いている方向を向いていたのですが、その方は逆方向、山の方を向いていました。
今でも思い出します。西陽に青いジャンパーを着た人。帽子を被って、ニコっと笑って「ああ、お前も逃げ遅れたか」と。その姿を今でも思い出します。
そして、うちから3軒離れたGさんという家、そこでプロパンガスの爆発が起きて、山から来る風で私の家まで燃え移りました。
【 迫る第二波、そしてガス爆発 】
臼澤▼ 震災の2年前、私は高野山真言宗、四国八十八箇所をまわりました。
そのときの記憶が蘇り、私は街中に響き渡るよう、あらん限りの大声で「南無大師遍照金剛! 南無大師遍照金剛!」と唱えました。
それで、倒れないようにテレビのワイヤーを支えにしつつ、タローをこう抱えて、やっとここまで来ました。
そのときはもう、うちがぼうぼう燃えているので、どこかに逃げなきゃいけない。ふと見ると、50メートルくらい離れたところに、鉄骨2階建ての建物がありました。そこまで行けば焼け死なずに済むと思いました。
でも家とかトラックとかが流れてきていて、それが邪魔になり、鉄骨の建物まで行けそうにない。そう思っていたら、ちょうどすぐそばにワイヤーの電線が現れ、それが鉄骨の建物まで続いていました。
でもそのワイヤーは高圧線で、触ったら感電してしまうのではないか?とも思いました。
しかし、そもそもこの街はすでに停電してるんです。
それで一か八か、ワイヤーを触ってみました。
すると、なんともない。感電しないのです。私はそのワイヤー電線を伝って、鉄骨の建物をめざしました。首のところまで水がきて、ほんとうに大変でした。
仮に私が、いま抱えているタローを放せば、少しは動きやすくなります。でもタローも一緒に首のところまで水に浸かっているのです。
それにあの時のタローの目、クンクンいう声、ブルブル震えている様子を見たら、絶対こいつを連れて行くぞという決心がつき、なんとか目指す建物まで来ました。
鉄骨の建物まで来て、やれやれと、ひとまず安心したのですが、第二波が来ました。
水がくるぶしのあたりまで来たと思ったら、どんどん水位が上がっていきます。それで、そこらへんにあるカラーボックスとか棚とか座布団とか、そういうものを積み上げて、上に乗りました。天井近くの高さです。
それでも水位は上がり続け、ベルトのあたりまで来ました。それで「自分は死んでしまうんだ、命はないんだ」と思いました。
ただ、このときはもう、普段の「死ぬ」とか「生きる」という感覚とは違っていて、ただ「死」ということを思いつつも、何も考えない。
水は上がってくるのですが、もう死ぬのが怖いとか、そういうのはなかったです。ただひたすら、カメラのシャッターのように、眼の前の光景を切り取っていく。それだけでした。
天井を壊せば、梁にしがみつけるかとも思い、天井板を壊そうともしましたが、なかなか壊れません。水位はどんどん上がってくるのに、私はもう、積み上げたものの上に乗って体をつっぱらせているしかありませんでした。
しばらくすると、水位の上昇があごのところで止まりました。そして緩やかに引いていきます。ついにくるぶしのあたりまで下がりました。
それで助かったと思ったら、こんどはプロパンガスの爆発です。近くのコンビニに30キロボンベが4、5本並んでいて、それが一気に爆発し、ここも火の海になってしまいました。メガネもかけられないくらい、周囲は熱くなっていきましたが、タローはというと、状況がここまで来るともう鳴かんものですね。ブルブル震えているだけでした。
とにかくここに居たら火にやられてしまうので、またどこか別の場所に逃げなくてはいけない。外を見ると、2階建ての旅館があったので、そちらに移ることにしました。「助けてくれー」と大声を出し、そこへ向けて逃げ始めました。
消防署の人たちが来ているのが見えました。あたりは完全に水没していて、海水にたくさんの屋根が浮かび、それが潮の流れで少しずつ動いています。私はそれらの屋根やトラックの荷台などを伝って、やっとここ(映写写真を示す)まで来ました。
このとき、私はついに地面に足がついていて、「助かったのだ」と思えました。その瞬間、体じゅうにブルブルブルッ!と震えが来ました。それまで水に浸かってきたのに、そういう感覚はなかったのですが、地面に足がついて助かったと思った瞬間、激しい震えが来ました。
消防署の方は脚立を用意していました。浮かんでいる屋根にそれを引っ掛け、地面に渡してくれたので、私はここまで来られたのです。
なぜ消防署の方が脚立を? と思いましたが、これもちょっと不思議な話で、何かの役に立つと思い、誰かから借りてきていたそうです。
消防署の方はМさんという方でした。Mさんが「ここにいたら山火事で危ない。中央公民館が避難所になってるからそこに行きなさい」とおっしゃるので、私はそこに向かいました。この公民館は現在「鹿子踊 (ししおどり) 伝承館」になっています。
避難所に行き、ようやく腰を下ろすことができました。しかし、ものすごく寒い。寒くて寒くてしょうがない。そのうち変な眠気が来る。もう寒いので寝てしまおうかと思ったのです。
ところがふと「八甲田山 死の彷徨」を思い出しました。あの作品を私は小説で読んだり、映画で見たりして、印象に残っていました。
「八甲田山――」では、兵隊さんが寒さのあまり、眠ってしまうんです。そしてそのまま亡くなってしまいます。このとき私の脳裏にはそのシーンが思い浮かび、どうにか自分を奮い立たせて、眠らずに起きていました。




